11月8日(金)
清の「言いたい放題」
アナウンサーの試験に受かったのが、昭和36年の秋。それから、即、研修が始まった。基礎訓練(滑舌、ニュース読み、朗読、インタビュー、中継等々)が2ヵ月。やる度にいろいろ注意され、教えられた。たかが、と思っていたが、仕事となると、そんな簡単なものではなかった。関西なまりがあって、それからして大変だった。伝える、ということもほんとに難しい。来る日も来る日も注意、注意の連続。
日によって講師(先輩アナウンサー)が代わるのでその人によって、言われることが微妙に異なることもあり戸惑うこともしばしば。こんなんで一人前になるのか。不安の連続だった。でも、まがりなりにも一応合格しての訓練だから、と気を取り直したものだ。
基礎訓練が終わると実地だ。
所謂、実技。野球はオフだったので行かなかったが、スポーツではボクシングの試合会場へ。又、舞台中継では宝塚大劇場や大劇(大阪劇場)へ。
今はもう無い大阪劇場では橋幸夫ショウを観た。
橋幸夫さんがデビューした年で「潮来笠」を歌っていた。今も覚えている。生駒山の頂上からの中継もあった。そんな中で「明日は競馬場へ行く」と先輩のひと声で阪神競馬場へ。大学は仁川にあったので毎日通っていたが、競馬場は仁川の駅を挟んで下の方にありそれまで行ったことはなかった。
土曜日になると電車の風景が一変、それが競馬だとわかって…。まさか、その競馬が仕事になって今日まで続くとは。“縁”というのは不思議なものだ。
実際に初めて生のレースを見て、何頭も出ているのに馬の名前が一瞬に出てくるのを目のあたりにして不思議、ビックリだった。
帽子の色、ゼッケン等々、色々あるのだが、決め手は騎手が着いている服(勝負服)。
それを教えられたのは苦労して、かなり時間が経ってからだった。
それまでの泣き笑いの苦労はおくとして本格的にGIレースの実況を始めるようになったのは昭和44年の桜花賞からだった。
8年が経っていた。それまでは、パドックやゲートリポートでレース実況は簡単にOKが出なかった。
その桜花賞を前にして先輩から言われたことは
「上手にやろうと思うな。馬は“絶対”間違わないでくれ。仮に、道中、間違ったとしても、ゴールだけは間違わないでくれ!」と厳しく…。
幸いにも一応無難にやり続け20年経った昭和最後の64年のエリザベス女王杯。
その頃はもう馴れに馴れ、楽しみながら実況していた。昭和64年の勝ち馬サンドピアリス。
離れた最低人気、この馬だけは来ないワ、と軽視。ところが、だ。4コーナーをまわって直線へ向いた馬群の先頭に来ない、と思っていたあの馬(サンドピアリス)。ビックリで冷たいものが背中に走った。
ゴールへ入る瞬間も、まだ、サンドピアリスに間違いない。と自分に言い聞かせる文句が…
大波乱だった。なんでもそうだが、馴れて気がゆるんだ時が危ないのだ。
他の競技と違ってそこはギャンブルの面もあってお金がそれも何百億という大金がかかっている。スミマセン!ではすまないのだ。あの時、間違っていたら今日はなかった、と思っただけでゾッとする。
エリザベス女王杯がくる度にあの一件を思い出し気を引きしめている。今でも、だ。
因みに馬券は買って実況していたのか、と聞かれるが、聞くだけ“野暮”というものでしょう。自分が実況するメインレースが一番面白いのです。
今年はどの馬が…担当アナウンサーお疲れさん!
日によって講師(先輩アナウンサー)が代わるのでその人によって、言われることが微妙に異なることもあり戸惑うこともしばしば。こんなんで一人前になるのか。不安の連続だった。でも、まがりなりにも一応合格しての訓練だから、と気を取り直したものだ。
基礎訓練が終わると実地だ。
所謂、実技。野球はオフだったので行かなかったが、スポーツではボクシングの試合会場へ。又、舞台中継では宝塚大劇場や大劇(大阪劇場)へ。
今はもう無い大阪劇場では橋幸夫ショウを観た。
橋幸夫さんがデビューした年で「潮来笠」を歌っていた。今も覚えている。生駒山の頂上からの中継もあった。そんな中で「明日は競馬場へ行く」と先輩のひと声で阪神競馬場へ。大学は仁川にあったので毎日通っていたが、競馬場は仁川の駅を挟んで下の方にありそれまで行ったことはなかった。
土曜日になると電車の風景が一変、それが競馬だとわかって…。まさか、その競馬が仕事になって今日まで続くとは。“縁”というのは不思議なものだ。
実際に初めて生のレースを見て、何頭も出ているのに馬の名前が一瞬に出てくるのを目のあたりにして不思議、ビックリだった。
帽子の色、ゼッケン等々、色々あるのだが、決め手は騎手が着いている服(勝負服)。
それを教えられたのは苦労して、かなり時間が経ってからだった。
それまでの泣き笑いの苦労はおくとして本格的にGIレースの実況を始めるようになったのは昭和44年の桜花賞からだった。
8年が経っていた。それまでは、パドックやゲートリポートでレース実況は簡単にOKが出なかった。
その桜花賞を前にして先輩から言われたことは
「上手にやろうと思うな。馬は“絶対”間違わないでくれ。仮に、道中、間違ったとしても、ゴールだけは間違わないでくれ!」と厳しく…。
幸いにも一応無難にやり続け20年経った昭和最後の64年のエリザベス女王杯。
その頃はもう馴れに馴れ、楽しみながら実況していた。昭和64年の勝ち馬サンドピアリス。
離れた最低人気、この馬だけは来ないワ、と軽視。ところが、だ。4コーナーをまわって直線へ向いた馬群の先頭に来ない、と思っていたあの馬(サンドピアリス)。ビックリで冷たいものが背中に走った。
ゴールへ入る瞬間も、まだ、サンドピアリスに間違いない。と自分に言い聞かせる文句が…
大波乱だった。なんでもそうだが、馴れて気がゆるんだ時が危ないのだ。
他の競技と違ってそこはギャンブルの面もあってお金がそれも何百億という大金がかかっている。スミマセン!ではすまないのだ。あの時、間違っていたら今日はなかった、と思っただけでゾッとする。
エリザベス女王杯がくる度にあの一件を思い出し気を引きしめている。今でも、だ。
因みに馬券は買って実況していたのか、と聞かれるが、聞くだけ“野暮”というものでしょう。自分が実況するメインレースが一番面白いのです。
今年はどの馬が…担当アナウンサーお疲れさん!