ザ・ドキュメント

2006年2月23日(木)

内容

大阪に残された最後の1等地「梅田北ヤード」。大阪駅裏に広がるJR梅田貨物駅の24ヘクタールをいう。甲子園球場の6倍の広大な敷地は、再開発がいわれながら長く放置されてきた。昨年10月、ようやく着工式がおこなわれ、今年から本格的に動きだす。
国鉄民営化から実に19年になる。なぜ再開発が遅れたのか?あとにどんな町が出現するのか?番組は、15年間の梅田北ヤードの変化を縦軸に、JR貨物梅田駅の社員の人間模様を横軸に描く。15年間の映像は、再開発を遅らせたのが、移転問題、バブルの崩壊、都市計画を推進するリーダーの不在だったことを浮かびあがらせる。その背景に国鉄時代のひずみがあることも。そしてまたカメラは、愚直なまでに誠実に生きる貨物のポッポ屋たちの姿もとらえた。

カメラは1990年1月4日の初荷からスタートする。梅田貨物駅は、昔は墓地だったため毎年8月、施餓鬼をおこなっている。バブル絶頂期の頃は、鉄道部品や各地の物産を売るバザールを開催し、梅田駅80人の社員は元気がよかった。JR西日本の本社が、新社屋に引越しし、旧大阪鉄道管理局が更地になり、いよいよ再開発が行なわれると期待したとき、梅田貨物駅の移転先である吹田市から移転反対の住民運動がもちあがった。コンテナを運ぶトラックの排気ガスで環境悪化を招くという理由からだ。そんな時、バブルがはじけた。貨物駅跡地に大阪のテレビ局5局を集めるという「メディアシティフォーラム」の計画も止まってしまう。梅田北ヤードは、都市計画に強い指導者に恵まれないまま放置され、再開発は凍結する。

その間、信号係の山田正洋さん(45)らは、淡々と仕事をこなしていた。しかし鉄道貨物は、トラック輸送に主役の座を奪われ、1割にも満たない状態に衰退していた。梅田貨物駅は、国鉄民営化(1987年)の時に、25兆5千億円の赤字返済のために売却が決定していたので、移転を待つだけの駅だった。そのため老朽化した社屋の修理もままならない。社員数も半分以下に減り、山田さんは24時間勤務を3日に1回の割りでこなしていた。貨物量は減る一方で、使われないホームは駐車場になった。しかし貨物のポッポ屋たちは、日々の仕事を「無事故」でこなしていた。それが、鉄道好きでこの仕事を選んだ彼らの誇りだった。

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