2004年4月29日(木)
遥かなる銀幕のマウンド

遥かなる銀幕のマウンド
覚えているだろうか。12年前の1992年。阪神タイガースが壮絶な優勝争いをし、2位でペナントレースを終えたシーズンがあった。当時の監督は中村監督。新庄、亀山といった若トラが台頭し、監督が提唱した「守りの野球」が開花したあの年である。

その投手陣の中に、嶋尾康史(しまおやすひと)がいた…。
嶋尾康史は兵庫県姫路生まれの35歳。昭和43年5月男3人兄弟の長男として、嶋尾家に誕生した。1番下の弟が、脳性麻痺にかかったこともあって、康史は幼くして両親から頼られる存在だった。康史は、小学校から始めた野球でその才能を開花させ、野球の名門・東洋大姫路高校に進学する。チームでエースだった同級生の長谷川滋利(現シアトルマリナーズ)と両輪の活躍で、東洋大姫路高校は、甲子園に出場、ベスト8まで勝ち進んだ。
高校卒業後はドラフト2位で阪神入り。嶋尾は、190センチメートルの長身から投げ下ろす速球を武器に、先発、中継ぎ、押さえと何でもこなせる右の本格派投手となっていった。
しかし悲劇は突然訪れた。投手にとって命であるヒジに違和感が走ったのだ。思い通りに球が行かなくなった嶋尾は、右ひじにメスを入れることを決意する。渡米し、世界の名医といわれるジョーブ博士の執刀をうけ、順調に回復していく嶋尾。しかし「早く一軍のマウンドに戻りたい」というあせりから完治しないまま2軍のマウンドに上がってしまう。そしてそのマウンドで…。

ボールはもう握れなくなっていた。
97年、嶋尾は阪神球団を退団する。

嶋尾投手が選んだ第2の人生は役者だった。野球解説の道もあったが、志半ばで野球をやめた自分が『今精一杯頑張っている選手たちを解説する資格があるだろうか』
彼らしい信念に従った行動だったが、芸能界はそんなに甘いものではない。野球エリートとして何不自由ない優雅な生活を送っていた嶋尾は、収入ゼロに等しい生活を余儀なくされる。初めて経験する苦しい生活。
すべて0からの挑戦。それでも、彼は自分が納得できる仕事をするため、嶋尾はちょっとしたエキストラのような役での仕事はすべて断った。
もがきながらも前に進む嶋尾。葛藤しながらも歩を進めてきた嶋尾の努力と信念が少しずつ実を結び始め、徐々に仕事も増えてきた。一世を風靡した人気ドラマ「やまとなでしこ」にも出演。世間にも認められ始めたのだ。

しかし嶋尾の中にいつもどこか野球を引きずっている自分がいた。そんな時、嶋尾に映画の話が舞い込んでくる。
その映画は、阪神タイガースを題材にした「ミスタールーキー」。嶋尾の役は、阪神タイガースの選手だった。野球に関するものをすべて遠ざけてきた嶋尾は…。
嶋尾投手の栄光と挫折、常人には計り知れない葛藤と本当の姿を追っていくドキュメンタリー。